2021年6月12日
平塚から東海道の定番の宿場町を経て京都三条大橋まで行き着いたところで、そこから目的地の1つの若桜宿を経由し、由良宿に至る、おそらくは人生最大の自転車での帰省計画です。江戸期では歩いて膝栗毛での往復となりますが、令和の時代での人力による移動は、“馬の代わりに人力車にまたがって”と考えるのが合理的であると思います。
(膝栗毛:膝を栗毛の馬の代わりにして旅をすること。徒歩で旅行すること)
前回のまとめ
- 若桜宿に抜けるには、おそらくは江戸末期においては、八鹿宿(養父市)あるいは村岡宿(美方郡香美町)を起点にして、氷ノ山の裾のどこかで峠越えをすると思えます。
- 八鹿宿を起点にすると、以下の二つの道筋があります。
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- 八鹿宿➡若杉峠➡戸倉峠➡若桜宿(52km (十三里)
- 八鹿宿➡小代峠➡若桜宿(63.4㎞(十六里))
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- 当時、一日平均八里を歩いていたことと、大きな峠越えがあるので、八鹿宿と若桜宿との間に、どこか宿が必要だったに違いありません。
- 次回は村岡宿を起点にして若桜宿に抜ける道筋を検討します。
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1.今回は村岡宿を起点にして若桜宿に抜ける道筋を検討します。
- 前回の話で、八鹿宿を峠越えの起点にしても、戸倉峠を越えていく道筋は成立しません。
八鹿宿➡若杉峠➡戸倉峠➡若桜宿の道程では、途中にお宿が必要ですが、お宿がありそうな大きな村が見当たりません。従って戸倉峠を越えて若桜にいく道筋ではないことがわかりました。
- 今回の検討の村岡宿を起点にして峠を越える道筋では、越える峠の選択肢は小代峠のみです。
- 山越えに向かう起点が村岡宿と考えると、村岡宿と八鹿宿の距離はおよそ27㎞(7里)でした。この時に進む道は山陰街道です。両宿で一泊ずつするのが、常道だったのでしょう。(長い隧道がない時代では1つ峠があったと思われます)
- 村岡宿を出発し若桜宿に抜ける道筋をGoogle Mapで調査すると、歩いて峠越えをする場合、若桜宿までが37.5㎞(9里)です。
- 朝早く出立し、途中で秋岡村を経由して頑張れば十時間後には若桜宿に到達できる計算になります。朝六時出立であれば、休憩なしで行けば、十六時には到着ということです。
- 峠越えがあるので、更に二時間程度は必要になるのでしょうか。そうなると途中で一泊したいと考えたと思います。
- しかし。この道筋を明治初に使っていたのでしょうか。そうであれば、この道筋のどこかに道標が残っているでしょうか。この点は大事です。
2. まとめ
- 若桜宿に抜けるには、おそらくは明治初においては村岡宿(美方郡香美町)から、氷ノ山の小代峠越えをしたように思えます。
- 次回は、更に、その道筋で正しいかどうかを検証してみたいと思います。
ご参考になれば幸いです。
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