山陰街道の宿場町1 京都から若桜宿へ

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平塚から東海道の定番の宿場町を経て京都三条大橋まで行き着いたところで、そこから目的地の、若桜宿を経由し由良宿に至る、おそらくは人生最大の自転車での帰省計画です。

2021年6月11日

平塚から東海道の定番の宿場町を経て京都三条大橋まで行き着いたところで、そこから目的地の1つの若桜宿を経由し、由良宿に至る、おそらくは人生最大の自転車での帰省計画です。江戸期では歩いて膝栗毛での往復となりますが、令和の時代での人力による移動は、“馬の代わりに人力車にまたがって”と考えるのが合理的であると思います。

(膝栗毛:膝を栗毛の馬の代わりにして旅をすること。徒歩で旅行すること)

本日の作業

1.山陰街道の宿場町の全体調査

2.八鹿宿(養父市)➡若桜宿(若桜町)道筋の検討

内容

1.山陰街道の宿場町についての全体像の調査

Wikiでは、以下のように紹介されておりました。:

山陰街道 - Wikipedia

<山陰街道>

三条大橋(京都府京都市東山区)➡樫原宿(京都府京都市西京区)➡亀山宿(京都府亀岡市)➡園部宿(京都府南丹市)➡須知宿(京都府船井郡京丹波町)➡檜山宿(京都府船井郡京丹波町)➡菟原宿(京都府福知山市)➡福知山宿(京都府福知山市)➡和田山宿(兵庫県朝来市)➡八鹿宿(兵庫県養父市)➡村岡宿(兵庫県美方郡香美町)➡鳥取宿(鳥取県鳥取市)➡母木宿(鳥取県鳥取市)➡青屋宿(鳥取県鳥取市)➡泊宿(鳥取県東伯郡湯梨浜町)➡橋津宿(鳥取県東伯郡湯梨浜町)➡長瀬宿(鳥取県東伯郡湯梨浜町)➡由良宿(鳥取県東伯郡北栄町)➡八橋宿(鳥取県東伯郡琴浦町)➡赤崎宿(鳥取県東伯郡琴浦町)➡下市宿(鳥取県西伯郡大山町)➡御来屋宿(鳥取県西伯郡大山町)➡淀江宿(鳥取県米子市)➡米子宿(鳥取県米子市)➡安来宿(島根県安来市)➡出雲郷宿(島根県松江市)➡松江宿(島根県松江市)➡宍道宿(島根県松江市)➡今市宿(島根県出雲市)➡温泉津宿(島根県大田市)➡郷田宿(島根県江津市)➡浜田宿(島根県浜田市)➡三隅宿(島根県浜田市)➡益田宿(島根県益田市)➡津和野宿(島根県鹿足郡津和野町)➡山口宿(山口県山口市)➡小郡宿(山口県山口市)

 

  • 古代・中世における山陰道と近世の山陰街道は、道筋が異なっているということです。今回の旅は、近世の山陰街道を通ることに致します。
  • 特段の理由はありませんが、明治初期は汽車も自動車もありません。宿場町は存在します、ということでは、私自身が明治初に生きていた方々の膝栗毛の道筋に沿って人力車で旅をするということになります。
  • 現在の国道九号線は、近世の山陰街道にほぼ沿っているとの事ですから、下調べの調査の負荷もかなり軽減されます。
  • 参考ですが、Wikiでは、このような参考情報が出ておりました。
    1. 律令時代の山陰道(古代山陰道)は、畿内と山陰道諸国の国府を結ぶ官道であり、七道の中で小路とされた。
    2. 江戸時代になると、新たに山陰街道(近世山陰道・丹波街道)が設置された。これは古代山陰道と異なるルートとなり、京(平安京)から丹波を通過し、周防国に至る街道であった。
2.八鹿宿(養父市)➡若桜宿(若桜町)道程の検討
  • 若桜宿に抜けるには、おそらくは江戸末期においては、八鹿宿(養父市)あるいは村岡宿(美方郡香美町)から、氷ノ山の裾のどこかで峠越えをすると思えます。
2.まとめ
  • 八鹿宿からですと、以下の二つの道筋があります。
      1. 若杉峠➡戸倉峠➡若桜宿(6km (十三里))。
      2. 小代峠➡若桜宿(63.4㎞(十六里))
  • 一日平均八里を歩くことと、大きな峠越えがあるので、八鹿宿若桜宿との間に、どこか宿が必要だったに違いありません。
  • 次回は村岡宿から若桜宿に抜ける道筋を検討します。

ご参考になれば幸いです。

 

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