平塚から東海道の定番の宿場町を経て京都三条大橋まで行き着いたところで、そこから目的地の一つの若桜宿を経由し、由良宿に至る、おそらくは人生最大の自転車での帰省計画です。江戸期では膝栗毛での往復となりますが、令和の時代での人力による移動は、“馬の代わりに人力車にまたがって”と考えるのが合理的であると思います。
(膝栗毛:膝を栗毛の馬の代わりにして旅をすること。徒歩で旅行すること)
前回のまとめ
- 若桜宿の手前の宿は、中瀬だったと思われます。今の関宮の中心には、江戸期の活動を物語る遺構がありません。一応、中瀬は関宮の一部ではあります。
- 国道九号線が整備されていない時代は、九号線の周辺道路を使って、歩いて移動していました。橋も今ほどないはずです。古い街並みを探りながら、次の手前の宿を探してみます。一日十里(40㎞)が限度として、和田山周辺で探ってみます。そこまでのルートも再検証します。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
調査結果
1.中瀬金山宿から和田山宿に抜ける道筋
2.普通に徒歩ルートで検索すると
3.国道九号線はトンネルがあるから通れない
4.最短の道筋は以下のはず。
5.あるライダーのブログから勝手に引用
http://geo.d51498.com/wxfff590/hyougo2712.html
——————————————————-
だが、言ってみるものだ。
この一言で重要な情報を引き出すことに成功したのだ。
「ふーん、じゃあ北側に『伊勢神宮まで何々って』刻まれた石碑があったろ?」
・・・なんですと、伊勢神宮ッスか。
つまりアレですか、この道はお伊勢様参りに使われていた道って事ッスか。
お伊勢参りにも使われる重要な街道。
——————————————————-
(今度、訪れたら写真を撮って入れ替えます)
———————————–
まとめ
- 中瀬金山宿の手前は和田山宿だと思われます。その道筋は万福寺の脇を抜ける県道二百七十一号を使っていたと思えます。橋の数が少ない当時では、渡る橋が少ないことも大事なことですね。
- 古い街並みを探りながら、次の手前の宿を探してみます。一日十里(40㎞)が限度として、福知山宿周辺で探ってみます。そこまでの道筋も再検証します。
皆さんの参考になると幸いです。
2021年6月19日
コメント