平塚から東海道の定番の宿場町を経て京都三条大橋まで行き着いたところで、そこから目的地の一つの若桜宿を経由し、由良宿に至る、おそらくは人生最大の自転車での帰省計画です。江戸期では膝栗毛での往復となりますが、令和の時代での人力による移動は、“馬の代わりに人力車にまたがって”と考えるのが合理的であると思います。
(膝栗毛:膝を栗毛の馬の代わりにして旅をすること。徒歩で旅行すること)
- 中瀬金山宿の手前は和田山宿だと思われます。その道筋は万福寺の脇を抜ける県道二百七十一号を使っていたと思えます。橋の数が少ない当時では、渡る橋が少ないことも大事なことですね。
- 古い街並みを探りながら、次の手前の宿を探してみます。一日十里(40㎞)が限度として、福知山宿周辺で探ってみます。そこまでのルートも再検証します。
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- 江戸時代に、東北から三重の伊勢を目指した旅日記に一日30㎞(7里半)との記録があるそうです。
- 伊勢参りが目的だとして、せっせと歩くと、一日当たり、長くても40㎞(10里)という情報もあります。
- 中瀬金山宿―和田山宿では一日歩く距離としては、少しばかり短いと思われます。普通に徒歩ルートで検索すると27.5㎞(六里半)でした。
- もうちょっと、歩く距離を増やして次の宿場町まで足を延ばすとして、梁瀬(矢名瀬)宿です。30㎞(7里半)でした。
- 矢名瀬宿は、当時はそれなりの規模の宿場町だったようです。酒屋が今でも3件くらい残っています。
写真は、右記から引用させていただきました。https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks20/150/tajima.html
- 中瀬金山町の手前の宿場町は梁瀬(矢名瀬)宿が良いかと思います。
- 梁瀬宿から京都の間に、どこか適した宿場町があるか確認します。実際の旅行では元伊勢も詣でたいですね。(中一日観光ということですね)
- 以下、若桜町のホームージより抜粋しました。今までの推定結果を裏付ける事実が見つかってきました。若桜町から京都に抜ける道を見ていった方が、いろいろな情報が取れますね。
- 鳥取県の東部の町の方が兵庫県の西部の町よりも細かな歴史を伝えているように思います。兵庫県のように目玉となる遺構が少ないからでしょうか。
http://www.town.wakasa.tottori.jp/?page_id=60
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伊勢道の道標4ヶ所
伊勢道の道標は町内に4基(左より新町、渕見、米2基)が残されています。
江戸時代の若桜は宿場町として発展し、物資の売買や出稼ぎに加え、寺社参詣で人が行き来し、大変にぎわったといいます。特に、伊勢参りは人気が高く、集落で「伊勢講」という組織を作ってお金を貯め、年1回講の代表者が参詣していたそうです。
伊勢道は新町の道標から氷ノ山方面に進み、氷ノ越と呼ばれる峠を越え、兵庫県の関宮、八鹿、和田山を経て、京都府の旧大江町の元伊勢に至るルートだったと考えられています。元伊勢とは現在の伊勢神宮が鎮座する前に鎮座していたという伝承が残っている場所です。鳥取県東部では古くから大江の元伊勢に参る風習があり、伊勢道と呼ばれるようになったと考えられます。
なお、新町の道標には「従是ひだりハいせみち みぎハはりまみち」と記述されています。
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皆さんの参考になると幸いです。
2021年6月21日
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