平塚から東海道の定番の宿場町を経て京都三条大橋まで行き着いたところで、そこから目的地の1つの若桜宿を経由し、由良宿に至る、おそらくは人生最大の自転車での帰省計画です。江戸期では膝栗毛での往復となりますが、令和の時代での人力による移動は、“馬の代わりに人力車にまたがって”と考えるのが合理的であると思います。
(膝栗毛:膝を栗毛の馬の代わりにして旅をすること。徒歩で旅行すること)
前回のまとめ
- 若桜宿の観光案内によると、若桜宿を出てすぐに、江戸時代の道標があって、伊勢道は、こちらとの標識があるようです。つまり小代峠に向かう道が伊勢に向かう道である事を示しています。途中から氷ノ越(登山道)を越え関宮に向かいます。確定しました。
- 京都側から若桜宿までの道筋は確定しました。
- 人力車では秋岡村を経由することと県道五百三十一号、県道八十七号を使って山越えすることになります。
- 次は京都から関宮宿に至る道筋を再点検します。(道筋をさかのぼり、若桜宿から関宮宿まで)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
今回、分かったこと
関宮宿と中瀬金山宿 (Google マップと、関宮観光協会のマップ)
(「e連載ブログ > 中瀬金山イラスト散策マップができました!)から引用させていただきました。
(画質がいまいちです)
- 江戸末期には若桜宿に、もっと近い山向こうの宿場町は中瀬金山がある宿場町だと思います。
- 中瀬は。現代では関宮町になっています。4㎞(半里)ほど若桜宿には近いので、峠を越えてきた人は、おそらくは、現在の関宮町の中心まで行かず、中瀬で泊まったのだろうと思います。
- 以下、中瀬の観光ガイドより
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
-
- 中瀬は安土桃山時代の573年(天正元年)8月、氷ノ山越えをして来た因州(鳥取)の旅人が、中瀬村の西側の入口にある“大日寺”の傍らで砂金を発見し、中瀬鉱山と村の発展が始まりました。
- 豊臣、徳川時代に天領となった中瀬鉱山は、明治、大正、昭和と細々と採掘を続けていました。
- 江戸期に坑道が深くなるにつれ地下水が増加、当時の技術では排水がうまくいかず、衰退していきます。
- 享保8年(1723年)に金山役所が廃止され、その後は細々とした採鉱と休山を繰り返しています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
- 以下もその証拠の一つです。
―歴史ある金山町
- 江戸時代に「中瀬金山町」と称され、近畿で最大の金山町として開発されました。町境の3カ所に関所(門口)が置かれ、商人が通る際には通行手形や運上金(税金)が必要だったといいます。
- 「鉱山都市でありながら、総構えと呼ばれる城郭都市の姿を持った町」とのことで、いまでも、町割は当時から変わっていないとのことです。これは注目する価値があると思います。
- 中瀬には金昌寺(曹洞宗)、宝泉寺(日蓮宗)、常運寺(浄土宗)、金光寺(浄土真宗)、大日寺(真言宗)などの各宗派の寺院があります。
- 金昌寺は金山繁昌、宝泉寺は金という宝が泉のように湧く、金光寺は金がまばゆく光など、金山を連想する名称です。宝泉寺は文禄2年(1593年)、金昌寺は慶長14年(1609年)の創建です。
- 宝泉寺が作られた豊臣時代に町並みが整備され、金昌寺が作られた江戸時代に街並みの一部が再整備されたと推定しています。
まとめ
- 若桜宿の手前の宿は、中瀬だったと思われます。今の関宮の中心には、江戸期の活動を物語る遺構がありません。一応、中瀬は関宮の一部ではあります。
- 国道九号線が整備されていない時代は、九号線の周辺道路を使って、歩いて移動していました。橋も今ほどないはずです。古い街並みを探りながら、次の手前の宿を探してみます。一日十里(40㎞)が限度として、和田山周辺で探ってみます。そこまでの道筋も再検証します。
2021年6月18日
皆さんの参考になれば幸いです。
コメント