平塚から東海道の定番の宿場町を経て京都三条大橋まで行き着いたところで、そこから目的地の1つの若桜宿を経由し、由良宿に至る、おそらくは人生最大の自転車での帰省計画です。江戸期では膝栗毛での往復となりますが、令和の時代での人力による移動は、“馬の代わりに人力車にまたがって”と考えるのが合理的であると思います。
(膝栗毛:膝を栗毛の馬の代わりにして旅をすること。徒歩で旅行すること)
2021年7月3日
- 大津宿➡京都五条から亀山宿まで行く道筋でなく、大津宿➡伏見宿➡樫原宿➡亀山宿に向かう道筋を再検討します。特に伏見宿➡樫原宿の道筋ですね。
- 今でいう京都十条大橋を渡り、大津宿から深草へ向かう府道?を使っていたのではと思っています。
- 樫原宿➡亀山宿に向かう道中は、九号線沿いの町を訪ねつつ、淡々と九号線を進むことでやはり良いと思われます。ただ一カ所、隧道があります。ここは隧道の脇の山道があり、そちらが抜けられれば、大丈夫です。実地での確認が必要です。老ノ坂です。
- 樫原宿には沢山の宿場町風景が残っているようです。
三条大橋(京都府京都市東山区)➡樫原宿(京都府京都市西京区)➡亀山宿(京都府亀岡市)➡園部宿(京都府南丹市)➡須知宿(京都府船井郡京丹波町)➡檜山宿(京都府船井郡京丹波町)➡菟原宿(京都府福知山市)➡福知山宿(京都府福知山市)➡
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- 亀山宿で一泊するとして、その前の宿泊地は京都のどこか、と言いたいところでしたが、参勤交代で京都市内の通過は御法度でした。
- YAHOO知恵袋に以下の記載がありました。
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大名行列は参勤交代の際、京都を通過することはありませんでした。これは謀反防止のためで、有力大名が参勤交代を理由に勝手に京都に入り、密かに朝廷と結ぶのを嫌ったためです。 西国大名は山陽道、西国街道、山陰道を通って東上してきますが、京都には入らずに伏見に入り、大津へ向かうルートをとりました。 例えば平戸藩松浦家は大坂から京街道(大坂街道)を通って伏見に至り、そして大津街道を通って大津から東海道に入りました。 また東海道から山陰道にかかるときは、大津から伏見を経て樫原(かたぎはら、京都市西京区)を通り、老の坂を越えたといいます。樫原は洛中七条通り西詰め丹波口に発した旧山陰道と、物集女(もずめ)街道(四条街道と西国街道山崎宿が交差する交通の要衝)です。
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- 京都の町を回避する参勤交代道筋について
今回は、参勤交代の道筋をたどって進みたいと思います。その場合、五十三番目でなく五十四番目の宿場町で、大津宿の次の伏見宿を経由して樫原宿(山陰街道の始点)➡老ノ坂峠➡亀山宿と進みます。
- 樫原宿には、物集女(もずめ)街道(府道67号)から入ったと思われます。西国や山陰から来る大名は、この物集女街道を使っていたようです。京都の町中に入らないように、う回すると、伏見宿を出発し、鳥羽口あたりをカスめて、物集女街道に向かう道筋のはずです。
- 物集女街道に合流する手前の桂川をどうやって渡るかですが、桂川橋しか想定できません。
- その前提ですと、逆算すると伏見宿を出立し鴨川に掛かる橋が2つほど想定できますが、久世橋~(府道201号)~中山稲荷線~龍谷大前深草前を通るのが本筋に思えます。それ以上の情報は現時点、見つかっておりません。
- 大津宿➡伏見宿➡桂川橋➡樫原宿➡亀山宿に向かう道筋が確定しました。以下を道筋としたいと思います。
- 大津本陣~髭茶屋屋敷町(追分)~(府道35号)~藤森神社~竜谷大前深草~(府道201号)~久世橋~(府道67号:物集女街道)~樫原宿
- 次回は全体を整理して、大津宿から若桜宿へのルートを俯瞰したいと思います。
雑記
鳥取県のとりネットによると、https://www.pref.tottori.lg.jp/176850.htm
鳥取藩の参勤交代では、智頭宿から志戸坂峠を越え、小原宿に抜けた(山陽に出るということ)ようですので、氷ノ山を越えて山陰街道に抜けたのは、民間の人たち(旅の目的は伊勢詣)だけだったようです。
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鳥取藩の参勤交代に関して次の記載があります。
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四 因幡街道の宿場と御茶屋・本陣
鳥取城から上の渡しまで/用瀬宿と鳥居ヶ平/智頭宿と御茶屋/智頭宿での宿割/宿場を支えた村々/駒帰村と志戸坂峠/小原宿(大原宿)と本陣/平福宿と本陣/姫路までの宿場
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皆さんの参考になれば幸いです。
2021年7月3日
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